世の中、Aか、Bか、ではないことで満ち溢れてる

観光雑感

「脱原発か、原発再稼働か」

福島沿岸部に訪問するツアーをしていると、こうした議論が良く目につきます

そのたびにもやもやすることがあります

未だ言語化できないのですが、
世の中、Aか、Bか、ではなく、
Aでも、Bでも、受け入れて進んでいかなくてはならないし、
「Aでも、Bでもない」んだけど、「Aでも、Bでもある、C」という答えを探していかなきゃいけない、
そんな気持ちを抱くんです

分断を防ぐためには相互理解が必要になる

福島沿岸部を訪問するツアーにおいては、催行者としては中立の立場でいます

ツアーは、「脱原発」「原発再稼働」を訴える場ではなくて、あくまで「考える機会の提供」です

ただ、実際に訪問すると、核の事故による惨状を目の当たりにし、
脱原発の考えを持つ人が多いのも現状です

でも、そうした際にも、
「原発再稼働」の立場の人がどういう根拠でそう考えているのかを、
知っているか、知っていないかは大きな違いです

片側だけの情報を元に、判断をすると、判断を見誤るだけでなく、
逆の決断をした場合に、溝が埋まらないという弊害が生じます

浅い情報量での議論は、感情的になり、分断が進みます

観光の目的の一つは「相互理解」だと考えて観光業に携わっていますが、
相手への理解を促進する「通訳者」がもっと必要だと思うんです

世の中で決断を求められることなんて、
どっちも正解だし、どっちも課題があることばかりです

あとは、それを正解にしていけるかどうか

立場による主張を見極めながら論点を整理する

最近、新型コロナウィルスへの対応を見ていても同じことを感じます

「感染防止か、経済優先か」
「GoToキャンペーン、継続か休止か」

こうした議論の悩ましさは、全体最適と部分最適が異なるため、
壮大なポジショントークによる議論が行われることです

世界を考えてみれば、Aがいいけど、日本にとっては、Bがいい。
日本にとっては、Aがいいけど、自社にとっては、Bがいい。
甲社にとっては、Aがいいけど、乙社にとっては、Bがいい。

こうした議論においても、どの結論も、その立場にとっては正解です
ただ、結論で議論すると、お互いが理解しえない場面は多々あります

Aか、Bか、は平行線をたどります

そうした場合は、根本の目的(論点)を確認し合うことも大事だと感じています

「日本における向こう1年におけるコロナの死者数を最小化する」のか
「日本における向こう1年における病院での死者数を最小化する」のか、
「日本における向こう1年における自殺者含めた死者数を最小化する」のか

一度、論点を整理してあげることが、
「Aでも、Bでもない」んだけど、「Aでも、Bでもある、C」をみつけるスタート地点になります


わかりやすいから、
Aか、Bか、で議論するケースは増えていますし、
マーケティング技術の向上により、
Aか、Bか、を刷り込ませるのも巧みになっていますが、
もっと、Aか、Bか、ではない状態を楽しまないといけないのかもなぁ

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